【このコーナーでの学習のねらい】

 経験主義と系統主義のカリキュラム概念の違いと、それぞれを基盤とした学習理論について理解する。

【学び方】
@「経験主義」カリキュラムと「系統主義」カリキュラムの違いを調べる。
A「問題解決学習」についての論争について調べる。
 


 
1.戦後の「新教育」

 19世紀後半、アメリカでおこった進歩主義教育運動において、パーカー(Fransis W.Parker,1937-1902)が「中心統合法」の理論を唱えた。その理論は、子どもを教育の主体として明確に位置づけ、子どもの自己活動による「法則の学習」を目的として、自然科学系の教科をカリキュラムの中心に据えて、その他の教科を周辺に関連的に結びつけて学習を組織していくというアイディアであった。
 パーカーは分科的教授(departmental teaching)の弊害を次のように批判している。

…「現状での一般的な傾向は、それぞれの教科内容をことごとく分離させようとしているかのようである。有機的な統合ということが完全に無視されている。孤立は分解の週末点である。すべての教科が相互に本質的な関連をもっているということほど感動的な事実はない」…
 このようなパーカーの思想に基づき、1896(明治29)年に樋口勘次郎が日本において合科的な学習の実践を行った。樋口は高等師範学校在学中からヘルバルト派やパーカーの中心統合法を参照して「統合教授論」の研究に取り組み、卒業後、附属小学校の訓導として統合主義の理論に基づく授業実践を試みたのである。樋口は、(1)子どもの自発活動を重視し、(2)統一した知識を与え、(3)教材をかなり親密に関連させて「一大学科をつくる」、という3つの教授原則に従った授業を実践した。1899年に出された『統合主義 新教授法』は多くの実践者に影響を与えたとされるが、「飛鳥山遠足」の実践などは、樋口の統合主義の典型として語り継がれている。それは、今日の「総合的な学習」のねらいにも通ずる実践であった。

 大正時代の中頃には、「合科」という用語を使用した総合的な学習活動が全国各地で施行されている。例えば、従来の教科教授と生活実践を組み合わせた合科学習が田園教育塾において実践され、東京高等女子師範附属小学校では作業主義・労作教育的な合科学習が実践されている。また、また、兵庫女子師範附属明石小学校においては、「分団式動的教育法」を唱えた及川平治をリーダーとする実践が展開されている。さらに、奈良女子高等師範学校付属小学校において木下竹次が行った「合科学習」の実践は、後の総合学習の理論としても注目できる貴重なものである。
 1918(大正8)年、木下竹次は奈良女子高等師範学校付属小学校の主事に就任し、翌年から「合科学習」を開始した。木下は、教師が「自己の意志を以て児童生徒を支配し、児童生徒に対してはいっこうに教師の意志に忠順であることを要求している」ような教育を「他律的」教育として批判し、「自律的」学習の必要なことを主張した。そして、子どもたちが「各自の個性を基礎とし、自分の環境に依拠して種々の経験を積み、工夫創作を為し、よかれ悪かれ、自分でなくてはたどることのできない道をたどって、人間固有の本性を発揮し社会に貢献していく」ようになることを教育活動の目的にすえたのである。
 木下をはじめとする奈良付小の実践は、「合科学習」という言葉で説明されるものの、むしろ「全一的学習というのが適当」である。「学習法では生命を全一的に使用させつつその全一的発展を図ろうと云うのである。その生命の全一的発展を遂げることを合科学習と命名したので、実は学習は合科と云はなくても全一的であり合科であるべき筈である」…こう木下は説明している。
 
 1923(大正13)年、木下が主導した奈良付小の合科学習に対して、文部省が干渉を始めた。奈良女子大付属小学校の「わが50年の教育」(1962年)によると、文部省は「教科書を使っていない。法規に反している。児童の好むことだけをやらせている」と批判したという。その年の暮に森岡督長官が来校、さらに翌年秋には大臣自らが注意を与えたと記録に残されている。
 第二次世界大戦直後の「新教育」においては、超国家主義と画一主義を排し、徹底した“個性尊重”と“自発性の原理”にもとづく教育内容編成を提案した『米国教育使節団報告書』(1946年3月)が尊重された。そして、個性尊重の原則にもとづいて学校生活全体の“生活化”を説く『新教育指針』(文部省、1946年)を受けて、“討議法”や“プロジェクト・メソッド”あるいは“ドルトン・プラン”など、かつて第一次大戦後の新教育時代に普及した学習形態が華々しく再登場した。
 これらの学習は、子どもたちの自主的な学習態度の形成をめざして、“子どもの生活”の問題をとりあげ、そこから学習内容を組織することを意図するものであった。
 1946(昭和21)年度から成蹊小学校で実施された「自由研究」は、「従来のような教科書至上主義の教科学習によっては、どうしても達成できない生活学習−生活の中における子どもの勉強の教育構成」(成蹊小学校教育研究所〔51〕1947)として設けられた。これは、「児童の自発性、活動性、個性、社会性の伸展に適合するもの」として、教科外学習の一形態を支持するものであったが、やがて「教科学習と教科外学習との統一的一致における生活カリキュラムの構成もしくは、両者の交流的結合におよる新カリキュラムの設定」を志向するものとして位置づけられるものとされた。
 こうして戦後直後における「自由学習」「自由研究」「特別学習」「綜合学習」などの呼称による総合学習の形態は、「社会科」の成立と「自由研究」の新設という、1947年版学習指導要領の内容に具現化された。



2.新教育の花形教科「社会科」の設立

 敗戦のその時までは、神代に肇(はじ)まる皇国の歴史と、神聖にして不可侵の国体とを前にして、臣民たる国民が「社会」を問うことは許されていなかった。勝田守一は、社会科成立の意義を説きながら、次のように語っている。
 
われわれは、社会の諸学問に、われわれの公共的あるいは個人的な行動においてはたらくいろいろな要素をどのように合目的的に再構成するかという問題について、たずねることができなかった。社会の学問はあっても、それは多くは「科学的」ではなかったのである。われわれは、公共的・個人的行動においては、慣習や直接的信条やいわゆる熟練した経験による見通しや勘にたよるほかはなかったのである。
 
 それでは「見通し」や「勘」に代えて、われわれは何を手にできるか。当時、文部省にあって学習指導要領案作成に携わった勝田は、アカデミックな知識の総合性と実践的知性とが、新しい社会科をとおして統一的にかなえられるものと考えていた。文部省がとり入れたアメリカ型の社会科は、「なすことによって学ぶ」経験主義教育、問題解決学習という方法でもって、社会現象の総合的な理解力と実践的な能力を身につけさせることを目的としていた。一方では、「世の中はこれからどうなるのか」という依然として社会の動きに対する消極的な姿勢も少なくなかったが、他方では、「民主化」という解放された雰囲気のなかで、社会は動かせるものだと感じつつ、一部の教師の間では、自分たちがカリキュラムを作るという気迫がみなぎっていた。
 そうした積極的な気風のほかに、「これからはこうなるのだ」という先取り的な発想から社会科は一つのブームを生み、一時、コア・カリキュラム連盟が、その指導者たちの意図をこえて、その運動の中心に位置することになるのである。

 1947(昭和22)年に出された学習指導要領において、民主主義社会の建設に資する教科として「社会科」が新設され、同年9月1日より全国の学校で授業が開始された。発足当初の社会科のねらいには、経験主義に基づく教育思想が認められる。また、学習者が直面する生活問題を学習材に選んで、その題材とつながる問題の具体的な問題解決を目指していこうとする生活主義の発想が取り入れられている。
 つまり、発足当初の社会科の姿とは、経験主義教育思想に基づく生活問題の解決学習であったといえる。
 社会科の成立とともに、1947(昭和22)年版の学習指導要領の特徴は、教科を総合教科とし、教科教育を総合的単元で行うという性格を示し、「自由研究」を新設したことである。1951(昭和26)年版の小学校学習指導要領社会科編(試案)においては、「児童の現実生活で直面する問題の解決を中心とした学習」として、理解・態度・能力に関するねらいが記述されている。これより、社会科が経験主義教育・生活問題の解決学習を志向していることが明確にされた。
 しかし、教材や教育設備そのものにもこと欠く状態の中で、ゴッコ遊び、構成活動が教室の中で演ぜられ、校外の「調査」が繰り返され、その華やかさの陰で、何となくむなしいものを感ずる人びとから疑問が投げかげられることも少なくなかった。
 例えば、宮原誠一は、すでに1947(昭和22)年の時点で、「現実から問題を構成していっただけでは複雑となって、系統的な研究から遠ざかる」と、文部省の構想した社会科にみられる系統性の欠如、非歴史性を鋭く批判していた。
 昭和22年の学習指導要領において新設された「自由研究」については、「自由研究として強調された個人の興味と能力に応じた自由な学習は、各教科の学習指導法の進歩とともにかなりにまで各教科の学習の時間内にその目的を果たすことができるようになった」として、「自由研究」が廃止され、クラブ組織による活動等は「教科外の教育活動」のなかに含められることになった。

 1951(昭和26)年9月、国立教育研究所が全国の小中学校それぞれ1000校を対象として「全国小中学校教育課程実態調査」を行っているが、その報告のなかで単元事例の分析を行った社会科の「総合学習」の項で、「総合する中核としての現実的課題が重大な意味を持っていることを見落としている」「一言にして現せば課題性の欠如である」と、問題点を指摘している。この報告は、さらに、課題性を失った総合学習が、「構造のない、断片的な知識の集積に終る」傾向のあること、それを避けるとすれば、教育内容の所在を問わない「活動主義」に陥る傾向を示すことを繰り返し指摘している。
 「課題性の欠如」の指摘と期を同じくして「問題解決学習」が提起され、1950年代前半、総合学習は「問題解決学習」を中心に探究されることとなった。
 「問題解決学習」とは、1951年ごろから活発化したコア・カリキュラム批判、および、次に出される1955(昭和31)年版の小中学校社会科指導要領改訂に至る社会科解体の動向に抵抗し、総合学習としての単元学習を蘇生する目的から成立した概念であった。



3.コア・カリキュラム

 コア・カリキュラムの中心概念は、「形式的には統合的な性格を、内容的には生活経験を通して学ばせるもので、要約して言うと『生活経験統合カリキュラム』とでもいうべきもの」であり、そこにおいては、「人間形成過程において主体的な「経験」の連続的成長の観点から主体と客体を統一しようとする生活経験主義教育理論に即し」、生活経験に依拠する教科の統合をめざした。初期のコア・カリキュラムにおいては、「中心課程(中核課程)」と「周辺課程(基礎理論)」という同心円的構造による二課程の形態であった。
 「直接の生活問題解決の場から独立に知識・技能としての系統的な組織に従って学習されることが、より生活の発展にとって有利であることを自覚し」て、「知識・技能の学習は一応生活そのものの流れから独立して、いわば生活の準備として営まれるように」する。これによって「生活と学習とは分離するが、しかしこの分離は分裂ではない。刻々の生活の建設のために生活時間の一部をさいて生活に必要な知識・技術がその必要性の自覚に基づいて学習されるのである」。つまり、“生活的部分と教科的部分との分裂”を統一的にとらえるということは、結局「人類が文化遺産としてわれわれに残してくれた科学や技術の内容を独立に学習してゆく必要があるということを自覚し、その自覚にもとづいてかかる学習をする時、この学習はすでにその第一歩から生活そのものの活動内容とは別個のシークェンスをとること」になるという論理に基づくカリキュラム構成であった。すなわち、初期のコア・カリキュラム論とは、「中心課程」(中核課程)において、生活そのものの内容を学習対象とし、「周辺課程」(基礎課程)において生活に必要な知識・技術を系統的に学習するという、二層カリキュラム構造論だったといえる。
 1952(昭和27)年には、二層のカリキュラム構造を持つコア・カリキュラムに対する批判が増大する。それは、生活を学習対象とする「中心課程(中核課程)」と知識・技術を系統的に学習する「周辺課程(基礎課程)」とがうまく結びつかないのではないかという批判であった。「そこでこの両者が結びつくためにはそこに第三の中項的なものを必要とするのではないか、そのような考えから出発して、今日我々が三層構造論とよんでいる構造論に到達した。そこでは生活実践的な世界と基礎学習的な世界との中間に、両者をつなぐ中項的世界として問題解決課程と仮称されているような世界が立てられる...このようなカリキュラムによって生活と教科、生活と科学、リアリズムとアカデミズムとを、生活のために握手させる」のだとした。すなわち、生活実践課程(さきの「中心課程(中核課程)」に相当)と基礎課程を結ぶために、中間層として創り出されたのが「問題解決課程(研究課程)」であった。
 さらに「生活実践課程」「問題解決課程」「基礎課程」の三層に加え、それぞれの層において学習対象とされる「健康」「経済(自然)」「社会」「表現」の四領域を設定することにより、コアカリキュラムは「三層四領域」のカリキュラム構造論に発展することとなった。



4.勝田・梅根論争

 1953(昭和28)年、約10カ月にわたって「勝田・梅根論争」が展開された。その論争の争点とは、「問題解決学習を現実的課題との結合によって“綜合コース”として純化することが、その対極において、科学の系統的な教授のコースを純化して設定することとセットとして追求されている。とすれば、この領域区分は結果として、否定の対象であったはずの知識主義・言葉主義の教科教育を容認するものとなっていないだろうか」、また「問題解決学習と系統学習を二元的に領域区分しないとすれば、問題解決学習の単元構造が問題となる。そして、現実の問題解決学習の展開は、むしろ、「社会科に関する限り、系統的学習というものは問題解決の学習の外に別個のものがあるのでなく、真の系統的な内容体系というものは、問題解決の立場から新たに知識内容を再構成したところに確立される」のではないか、ということであった。

 勝田は、「問題解決という教育方法を高く評価する」としながら、「生活問題解決」が狭い生活の内では不可能なことを指摘した。一例をあげると、比較的小さな子どもにも、農村では重い税金のことや、農産物の値段と農具や生活必需品の値段とのひらきの悩みがあるであろう。だがこの問題は、「個人の経験内の操作や地域の協力だけでは解決できない日本社会の構造上の問題に連なっている」のである。その問題を科学的に解決しようとすれば、「経験を越えて組織された知識」が学びとられなくてはならない。
 次に、勝田は、「生活教育」のいう「生活」が「機能という静的な枠」(社会機能=スコープ)でおさえられてきたことに目を向け、それは「生活らしいもの」をなでまわし「生活ごっこ」に終始したのではないかと批判する。そうではなくて、子どもの悲しみや喜び、それに深く連なる日本の地域社会の悩みと希望、それを貫く歴史的、社会的な動向として生活をとらえなければならないのであり、「教師がこの生活に子どもとともに科学的・歴史的に対決しようとすることをおいてほかに、生活教育の地盤はない」と、彼は言い切っている。
 こうして、勝田は、「直接経験だけを考えるのが、経験を重んずることではない」、あるいは「問題解決は、現在ばかりでなく、将来の活動でもある」とする視点から、系統的に組織された科学の学習を主張した。他方、活動的方法もまた評価し、自主学習の習慣はどこまでも伸ばすべきだとした。この立場から、ごっこ遊びは目標を明確にし、人間関係の基本的な構造についての経験が一般化されるものに限定し、社会調査的学習方法は小規模化させるべきことを提案したのである。

 勝田の指摘はアメリカ式の素朴な新教育、生活教育に対する批判としてはそのとおりである。それに対して、梅根の主張によれば、われわれはアメリカ流のプロジェクトあるいは作業単元をのりこえて、新しい問題単元の在り方を追求してきたのだという。当時、コア連では、梅根が提案したといわれる三層四領域論が展開されていた。三層とは、日常生活たる生活実践課程、社会のもつ歴史性や全体性に着目し総合的な応用力をつける問題解決課程、それに基礎的な知識・技術を系統的に学習する基礎課程から成っている。この構造論では、勝田の批判した「ごっこ遊び」や経験学習的なものは生活実践課程に位置づけられ、しかしそれにとどまらず、より組織的・総合的な社会認識を高める学習のために問題解決学習が別に用意されていたという。
 梅根の説明では、問題解決課程はこうなる。「米」という単元を考えてみれば、それは、米作に関する理科的考察、地理的考察、歴史的考察など、あらゆる角度から必要なアプローチを行い、問題解決的思考を展開させるものであり、したがって教科に分けられぬものである。そしてさらに、梅根は、そこでの教授目的を、問題を克服するための「地理的、歴史的思考を活用する態度や能力」および「問題を科学的にとらえ解決していく力」を身につけさせることにおいていた。彼が知識ではなく、それを使っていく生活問題解決力の育成にこそ社会科の意義を見いだしていたことを、ここで見逃してはならない。

  すなわち、その争点は、単元内で分化と総合をいかに統一的に構造化するのかという問題であった。その課題を担って、1954(昭和29)年から翌年にかけての「日本社会の基本問題と単元学習(問題解決学習)」の一連の実践と議論が行われた。
 佐藤は「問題解決学習における「総合」の追求は、初期の生活単元学習のように、分科的(系統的)教授の否定としての総合学習として現れたのではない。それは、分科的教授と併行して、あるいは、それを内に含んで、諸科学と生活との統合を教育課程において実現する課題の追求となって現れたのである」と、問題解決学習による総合学習が系統的教授と相対するものとしてではなく、両者が並立・相補する形で教育課程に現れたことを指摘している。
 しかし今野は、問題解決学習衰退の経緯を次のように語っている。「生活と教科との間の分裂を自覚しながら、生活と主体とを同一視することによって、主体と生活とのあいだ、そしてその生活の内に内在する客観的なものと主体との関係をより深く追求することを断念さすことになった。そのために、教科と生活との間の分裂は“問題解決課程”によって解決できるという、一見構造的ではあるが内実は単純で平板な思惟様式に支えられていたことに気づかせ、その結果は、この構造論は主体と客観的にかつ対立的に実在する客体(知識・科学体系)の独自的論理に依拠する“系統学習”論の台頭の前に急速に衰退するものとなったのであった」。
 1954(昭和29)年、コア・カリキュラムを推進していたコア・カリキュラム連盟は、「日本生活教育連盟」とその名を変え、1956(昭和31)年には日本生活教育連盟は、コア・カリキュラムを教科カリキュラムの中に解消させることになった。



5.問題解決学習と系統性

 その後、この運動を進めた人たちの間では、コア連が日本生活教育連盟(日生連)へと再生するとき(1953年)も、社会科は問題解決学習であるという基本線はくずされなかったという。つまり、日生連ではそのころから系統的な学習を強調するようになるが、その場合でも「問題解決の展開を通して知識の系統性を確保する」ことが目ざされていた。また、日生連では一時期、生活綴方の影響も受けるが、1960年代になると、急速に科学の系統性の重視へと傾斜していった。
 それとは対照的に、一貫して子どもの生活経験に基づく問題解決学習を主張したのが、1958年に結成された「初志をつらぬく会」(社会科の初志をつらぬく会)である。この会は、「子どもたちの切実な問題解決を核心とする学習指導によってこそ、新しい社会を創造する力をもつ人間が育つ」という確信から生まれたのだと、綱領において説明している。この会の特色は、個々の子どもの思考の発展をこの上なく重要視することにある。そのことは、発達に関し「児童が外界と対決することによって、児童の中に発達してくる系統が、教育における系統である」(重松鷹泰)とまとめられていることからもうかがえよう。
 会の指導的立場にある上田薫は、「系統学習」が子どもの切実な問題の解決を無視していると考え、それを「注入主義」として非難した。その論拠に上田が提唱したのは、「知識の二つの相対性」であった。すなわち、知識はそれ自体が自己発展しなければ科学たりえないという相対性と、知識はそれを獲得し、はたらかす者の個性的状態を無視しては意味をもちえないという相対性である。前者は、「矛盾から矛盾へと進む思考」とか「未解決の解決」、ないしは「割り切ることへの抵抗」とも表現されている。それは、固定した知識の注入であってはならず、「緊張してむだなくねばり強く、いきいきとしておこなわれる」主体的な問題解決でこそやしなわれるものにほかならない。さらに、後者は、問題意識、発想の自由さ、問題追究の筋道の自由な選択、および子ども白身の問題を主体的に追求する過程の保障という意味でとらえられるだろう。
 ともかくも、新しい教科として実施された社会科には、経験主義教育の方法を採用することで、子どもの学習の意欲や自発性をひき出し、合理性、積極性、協力性、自主性を発展させるという意図があって、戦前の画一的な指導法による権威の注入を否定したという点に大きな意義を見いだせよう。しかし、この方法は、文化の体系と子どもの直接経験とをどうつなげていくかという困難な問題を当初から背負い込んだのである。個々の子どもの経験の意義づけにも、また社会を認識するにも、科学的な概念形成と法則認識が必要であるが、それらをいかに子どもの内面に生き生きと身につけさせるかが次の課題となってくる。



6.系統主義の教育

 文部省側から経験主義の教育実践ないし問題解決学習に対して疑問符が投げかけられたのは、1951(昭和26)年8月の教育課程審議会においてである。
 小・中・高における社会科の実情を見て、「もう少し系統立った知識や理解が身につくような指導計画」を導入する必要性が示唆されたのである。
 つづいて1956(昭和31)年に出された中学校学習指導要領社会科編において、分野別社会科が誕生し、社会科を支える理論・学習方法は経験主義教育思想に基づく問題解決学習から、系統主義教育思想に基づく暗記中心の学習へと徐々に移行していった。
 系統主義の教育思想が小学校社会科の授業に影響を及ぼしたのは、1958(昭和33)年に告示された小・中学校学習指導要領においてである。
 小学校社会科の基本的な教科目標として、「具体的な社会生活の経験を通じて...」と記されてはいるものの、あきらかに経験より理解が先行し強調されている。
 またこの学習指導要領においては、経験主義教育とともに述べられていた学習方法としての問題解決学習も姿を消している。当時は、1957年のソ連の人工衛星スプートニク号の打ち上げ成功により、世界的な科学技術教育振興の気運が高まり、また日本は高度経済成長期に突入していた時期である。それらの時代背景が、教育環境と人々の教育観を大きく変化させ、結果として系統性を重視した知識中心・暗記中心の社会科の時代が到来したのである。
 そして、1958(昭和33)年および1960(昭和35)年の改訂によって、教育課程が「各教科」「道徳」「特別教育活動」「学校行事等」の四領域からなるものとされ、また、その“法的規準”が強化されたことによって、「各教科間または教科と教科外間の「総合」学習の不詳状態へと進行することになった」と今野は指摘している。
 またさらに、佐藤は、1958(昭和33)年および1960(昭和35)年の改訂によって総合学習が成立しなくなった原因として次の5つの点を挙げている。
(1)「生活」(経験)と「系統」(科学)の構造的な発展が求められるのではなく、「生活」から「系統」への平板な転換が行われた。
(2)それまでの総合教科としての性格をもたされていた教科を分野別に解体し、教科の総合的な性格を内側から退化させた。
(3)個別教科の各々の教材の内容においても、それを統一的に構造づける原理を欠いていること。
(4)教科内容・教材の制度的固定化を行うと共に、総合学習自体も...小学校低学年の一部の教材(社会科・理科)に限定された。
(5)教育課程編成の実質的な主体が、学校、教師から文部省へと移行した。
 これらの要因によって、「教育課程において総合を追求し総合学習を創造する主体的条件が危弱化させられた」と佐藤は論じている。



7.系統主義と経験主義の融合

 1958(昭和33)年にはすっかり系統主義に転換した学習指導要領を受けて、上田薫らは「社会科の初志をつらぬく会」を組織し、「系統学習」への批判を訴えた。
 系統主義の社会科は、「本質的に知識の単なる注入に終わっている」「指導の内容も方法も画一化している」などの批判により、系統主義から経験主義への揺り戻しが生じ始めた。そこにおける揺り戻しは、単なる時代の逆行ではなく、経験主義に基づく問題解決学習の短所を補う目的から、系統学習との融合・併用がねらわれたと捉えるのが妥当である。
 「学問中心カリキュラム(discipline-centered curriculum)は、知識の生産をもたらす探究・発見に重心を置きすぎたため、学習者にとって、社会問題の解決や生活実践というフィールドから遊離してしまった。そうした反省をふまえて、総じて教育内容に関しては、生活現実との接点を意図した吟味が大切な要件になったなったのである。1967(昭和42)年10月の教育課程審議会答申において、低学年の社会科について、「具体性に欠け、教師の説明を中心にした学習に流れやすい内容の取り扱いについて検討し、発達段階に即して効果的な指導ができるようにする」必要があると述べられている。また低学年の理科について、「児童が自ら身近な事物や現象に働きかけることを尊重」し「経験を豊富にするように内容を改善」することが求められるとしている。このように低学年の社会科・理科において、教科の系統性をもって発達段階に即して指導していく系統主義の学習方法と、経験を重視する経験主義の学習方法を融合・併用がねらわれているのである。